田沼意次は名政治家?

 私の職業柄(建築積算)、話したり、書いたりする事柄はどうしても建設業界の片寄りがちです。 今回は別の方向に目を向けてみました。
 江戸時代、名政治家と言えばまず、テレビでお馴染みの8代将軍吉宗を思い浮かべる方が多いかと思います。
それよりももう少し後の時代に、田沼意次と、その後の松平定信という対照的な政治家が登場します。 「対照的」というのは、ダーティーな田沼に対して、クリーンな松平という意味です。 評判のあまり良くない田沼ですが、例の「賄賂を取った政治家」というのは彼のほんの一面であり、 全体像としての彼は、先が読め、アイデア豊富、しかも実行力のある名政治家ということができると思います。
それはなぜか?改めて彼の業績を掘り起こしてみましょう。
その1は
 江戸時代は概して「士農工商」。武士が一番偉く、2番目は米を作って年貢を納めてくれる農民(第一次産業)。 3番目は、田畑や山海などで採れた資源を加工し物を作り出す工人、職人さん(第二次産業)。 最下位が、他人の作った物を安く仕入れて高く売り、サヤを取る商売人(第三次産業)。 と位置付けられていましたが、彼(田沼)は二次、三次も一次」と同じ様に、平等に扱いました。 というより、むしろ三次産業の方に目を向け、経済活動を活発にし、世の中を活気づけた・・・。 このことが賄賂につながったのかもしれません。

その2は
 江戸幕府は原則として鎖国であったが、外国に目を向ける必要性を感じた彼は長崎を唯一の入り口とした。外国の文明品を積極的に輸入した結果、ガラス製品や、時計、地球儀など、当時の日本では考えられない西洋の物が次々と入って来た。

その3は
 学者、平賀源内に命じて、日本中の薬草を探させたり杉田玄白と前野良沢らに命じて オランダの医学書「ターヘルアナトミア」を翻訳させ「解体新書」と名付けた。 この翻訳書がその後の日本の医学の発展にいかに役立ったかはあまりに有名である。

その4は
 ナマコやイリコ、それとフカのヒレが中国料理にとって極めて高い価値を持っていることを知った彼は、 これらの乾燥品を中国に輸出させ、輸入で流出した日本の金銀を国内に取り戻した。

その5は
 当時は、蝦夷(北海道)から北の様子が全く分かっていなかった。そこへ探検家を送って調査させた結果、 カムチャツカ半島の一部と考えられていた、サハリンが独立した島であることを実証した。
 このように彼の展開した積極政策は、当時の国民生活を豊かにし、 後々の為にも大いに貢献していることが分かります。お金は命の次に大切なもの、 その2番目に大切なものを差し出してまで相談にくる商人を忠義な者と考え、様々な取り計らいをしたことが、 「賄賂政治家」と呼ばれてしまいましたが、もしかすると、陰で悔し涙を流しているのではないのでしょうか。

水清きにして魚棲まず。

 田沼の積極政策が堅物の重臣達の批判を浴び、その後に爽快に登場したのが松平定信ですが、 彼の行ったいわゆる「寛政の改革」は理論上は立派でした。
 しかし結果的には改革は成功しませんでした。幕府や、役人達が「質素倹約」を率先して行いました。 そこまでは良かったのですが、国民全体に「あれもダメ、これもダメ」と、ささやかな楽しみまでも制限したり、 自由な経済発展にブレーキを掛けたり、経済人を弾圧した結果、「重農賊商主義」がとられ、 巷はまるで火の消えたようにひっそりと暗くなってしまいました。 例の「士農工商」を改めて前面に押し出し、農民を崇める姿勢をとりながら、 実は財政再建と称して年貢を上昇させ、他方、商人は闇の存在として冷遇しました。
 長くて暗い、トンネルの中に押し込められた国民の中から次第に松平批判が起こるのは 当然の成り行きというものでしょう。 田沼意次と松平定信が好対照であることがお分かり頂けたと思います。 この時点で、松平は落第政治家、一方、田沼は多少の問題があるものの、 一応名政治家と言うことが出来ると思います。

現代にも通ずる「清と濁」

 江戸時代の政治のおけるこの清と濁、一面と全体像のギャップは 現代の政治にも類似を見ることが出来ます。
現在、辛口の女性代議士として人気の高い田中真紀子さんのお父さん、角栄氏は年月の経った今、 ロッキード事件の主役、又は目白の闇将軍とのイメージだけが残ってしまい、 肝心の業績の方が忘れ去られようとしています。
直接政権を担当したのは昭和47年7月からの2年間だけですが、その間「日本列島改造」と称して、 それまで中央に偏りがちな予算配分を地方に向けて、高速道路や新幹線を地方に伸ばすことにより、 日本全体を万遍無く活気付けようとしました。
 また外交政策では、歴代の総理が避けてきた中国との国交正常化に体を張って取り組み、 昭和48年に「日中国交正常化」を成し遂げました。 このことは現代でも「最初に井戸を掘ってくれた人」として中国人民から高い評価を受けているそうです。
 しかし、コンピュータ付きブルドーザーと称され抜群の行動力を誇った彼は、 その後に起こった石油ショックによる国内の混乱を治めることが出来ず、退陣を余儀なくされました。
 その後昭和49年12月に登場したのが「清潔」を売りにした三木武夫総理。 「クリーン三木」と言われ高度経済成長の陰で自然環境が破壊されてゆく点に歯止めを掛けようと 「環境庁」を創設し、今日の環境行政の礎を作ったくらいで、 他はこれと言って目立った業績を残すことは出来ませんでした。 (その理由には弱小派閥であった点もあります。)


 江戸時代後期、田沼に張られたレッテルと昭和の角栄さんに貼られた レッテルがどちらも「賄賂政治家」でありながら、実はそれはほんの一面に過ぎないと思います。 全体像としては実行力のある政治家として、当時の庶民からは喝采を受けた点が一致します。 どちらもダーティーな一面があることは確かですが、日本中を活性化し、 その時代に無くてはならない政治家であった、と私は思います。
 大切なことは、人をある一面を以って「悪い人」決め付けない事です。 人は色々な面を併せ持っていて、たまたま見てしまった一面を以って評価を 下してしまうことはなるべく避けたほうがよいと思います。出来れば良い所を中心に見たいですね。
 それにしても、バブル崩壊以来、景気が冷え込んでしまい、明るいニュースが少なくなってしまった現代に、田沼や、角栄さんに似た政治家が出現しないものでしょうか。私は待ち焦がれています。